建築ジャーナル
2001年 7月号

特集//在日コリアン設計者は「日本」で今

 

「在日」設計者の視点1 

朝鮮民族の広場「マダン」を民族学校に 

金 昌 秀(秀翠一級建築士事務所所長/大阪市生野区)

 

民族学校は、いまだ日本の学校教育法第1条に規定されていない。だから、建設には助成措置は得られず、寄付金でまかなわれている。金昌秀さんは、在日への民族教育の必要性をとなえ、その民族学校の設計にかかわってきた。(編)

 

「日本がいやなら帰れ」は無知

 在日韓国人・朝鮮人(以後、在日朝鮮人とする)の多くは、大日本帝国による朝鮮の植民地支配の結果として、強制的に、もしくは、半強制的に移住させられた1世の子孫であり、自らの意思で移住をした移民でもなければ難民でもない。

 1945年の敗戦当時、約210万人もの朝鮮人が日本に在留していたのであるが、解放後8カ月の間に百数十万人が帰国した。しかし、米ソ冷戦により祖国が南北に分断されてしまい、帰国することさえ不可能になってしまったのである。

 10年も経てば山河も変わると言われるが、1965年の韓日国交回復までの20年間という歳月は、在日朝鮮人の生活基盤を日本に築かざるを得なくさせてしまったのである。現在もさまざまな差別が残されているのではあるが、制度的にも意識的にも存在する差別の中、当時は、「どのようにして生き延びていけばいいのか」という状況であった。

 よく聞く「日本がいやなら帰ればいい」という暴言は、日本が行なってきた歴史的事実をまったく理解していない「無知」から発せられるのであろう。ともかく、生活基盤を日本に築かざるを得なかった朝鮮人1世の子孫が、現在の在日朝鮮人2世・3世なのである。

 

 

民族学校閉鎖を強行

 

 この間、在日朝鮮人1世は、劣悪を極める生活状況の中においても、子どもたちに対する教育には多くの情熱を傾けてきたのである。植民地時代には、まともに教育を受けられるという状況ではなかったがために、「子どもたちにはそのような思いをさせたくない」という思いと同時に、在日朝鮮人への差別がある日本で生活をするためには「可能な限り高等教育を受けさせることが最良の方法である」との意識が一般的であったと言える。このことは現在でも同じような状況であろう。

 植民地支配から解放されるや、それまで奪われてきた民族教育を行なうために、朝鮮人団体が各地で開設した民族学校は、連合国占領軍当局(GIIQ)と日本政府による1949年の「団体等親制令」を適用され、閉鎖を強行された。結果として在日同胞の子どもたちは、日本の公立学故に行かざるを得なくさせられたのである。

 しかし、在日朝鮮人による民族学校を守る闘いは、その後も在日本朝鮮人総連合会の結成(1955年)を契機に、学校建設・学枚認可獲得などの形で粘り強く続けられ、各地で各種学校の認可が出された(各種学枚許認可は地方自治体長の権限による)。これらは、解放後の民族教育運動が、日本政府の一連の民族教育抑圧政策にもかかわらず、民族教育が少なくとも日本の各地域の中で公認され、学校として定着したことを物語っているといえる。

 しかし、大多数の民族学校は、日本の学校教育法第1条に規定される学校(1条校)ではないがために、1条校のような制度的助成措置が受けられず、学校運営に多大な労苦を強要されているのが現状である。

 老朽化した校舎の改修や新設の費用は、保護者や民族学校を守ろうとする人々の寄付によってまかなわれており、学校という教育現場の主役を演じる子どもたちの舞台となる教育施設の充実化は必要不可欠な課題である。1条校並みの制度的助成措置を受けるための闘いは今も粘り強く続けられている。

 

 

子どもの創通性がマダンで発揮

 

 校舎の新設には多大な費用が必要になる。寄付によってまかなわれるために、新設にかかる予算は限られたものになるのであるが、これまでの民族学校の建築空間は、いわゆるハーモニカタイプの画一的な空間(建設予算上の闘題によるところが大きいのか?)であり、文部科学省の学枚建設の標準タイプであった。

 教育システムとしては大きく異なる部分がないからといって、空間構成に対する考え方も同じである必要性はない。民族教育には、その民族の文化的特色が必要であるという観点に立つとき、その教育空間の構成にも特色を持たせてもよいと考えた。

 生野朝鮮初級学枚は、大阪市生野区内の民族学枚を統廃合し、新たに建設された民族学校である。この民族学校の設計において、これまでのハーモニカタイブの空間構成から、朝鮮民族特有の文化的要素を取り入れることにより、開かれた教育空間を提案した。その文化的要素が「マダン」である。

 生活様式の空間構成の中心的位置づけとしてのマダンは、内部空間へ出入りするための外部空間のみならず、民衆の日常生活の行為に欠かすことのできない空間である。農作物の乾燥やキムチをつくることのみならず、さまざまな日常作業を通じての人的交流の場として利用されてきたのである。このような民族の生活様式で欠かすことのできないマダンの概念を教育空間に取り入れることにより、画一的な空間から開放的な教育空間へと質的転換を試みた。

 生野朝鮮初級学校には、初級班・幼稚班とも各学年が2クラスある。学年ごとの2クラスが利用するマダンを配置することにより、交流空間の秩序づけを行なった。学年ごとの交流空間としてのマダン、初級斑の交流空間としての多目的ホール、幼稚珠の交流空間としての多目的ホール・外部での遊び場空間、そして全体の交流空間としての運動場といった空間構成である。当然のこととして、マダンとしての位置づけに見合うだけの建築的な諸装置を、その空間は兼ね備えていなければならない。

 計画当初から、マダンの利用方法に関する質問が先生方から提起されていた。その多くが「これまで経験したことのない空間なので適切な利用方法がわからない」という内容であった。そのような先生方の不安は、竣工後、子どもたちによってかき消されてしまったのである。子どもたちは誰かに教わるわけでもなく、マダンで寝転びながら友だちと歌を歌ったり、座りこんで絵を描いたり、本を読んだりしているのである。まさに、子どもの持つ創造性がいかんなく発揮された証拠でもある。

 

    

    『生野朝鮮初級学校幼稚班の外観』        『生野朝鮮初級学校幼稚班のマダン』

 

  

幼稚班1階平面図

 各クラスとも園庭への出入りには、マダンという外部空間を通るようにしている。マダンには手洗いや足浅いの設備があり、外部空間と内部空間の中間的空間として存在する。この空間は2つのクラスがともに利用できる壌所として計画してあり、交流空間でもある。

幼稚班2階平面図

 2つのクラスは必要に応じて閉じたり開いたりが可能である.また、クラス-3は全体の行事を行なう空間でもあり、多目的室としての性格を有している。入園式や卒園式は、このクラス-3の場所で行なわれている。

 

 

 

今こそ、在日に民族性の回復が必要

 

 現在、在日朝鮮人社会の中核は、1世から、2世、3世へと代わってきた。3世ともなると、生活様式や思考方式は日本人と同じであると言っても過言ではない。そして、家庭内で使用する言葉でさえ、多くは日本語である。日本の社会が他の民族性を認めないという状況が、在日朝鮮人をして、そうさせてしまっていると言える。このことは、建築を取り巻く社会だけでなく、日本の社会全体が全体がそうなのである。

 「在日は、祖国の人間と同じでもなければ日本人でもないので、在日独自の文化をつくり、生きていくべきだ」という議論があるが、私は決してそうは思わない。この50年の問に、祖国に生きる人々は在日の状況を、在日の人々は祖国の状況をよく知らないで、いや、知らされないで生きてきたからである。在日にとって、今こそ、民族性の回復が必要なのであり、祖国との真の相互理解が必要とされる時代を迎えているのである。

 

 

金 昌 秀(キム チャンス)

 

1955年大阪府生まれ

 

1980年職業訓練大学校長期指導員訓練課程建築学科卒業後

          慎貞吉一級建築士事務所勤務

 

1987年秀翠一級建築士事務所設立

  

 

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